マノオキアンの亡霊

既存の定義に逆らい、異なる解釈を追求し続けた人物であった。

クリス・ギボン
アート提供
シダーストリートギャラリー、ホノルル美術館、
パシフィッククラブ

当初は無題で、のちに『ザ・マット・ウィーバー』と題された1930年に製作されたキャンバス画の油絵は、 アーマン・マノオキアン氏の芸術家としての新たなる方向性を示すものであった。パステル色をあしらった優しい線使いのヒューマニストな構図は、大胆な色合いと鮮明な幾何学模様で、神話に出てくるような先住民文化の“古きハワイ”を慎ましく描いた『アウトリガー』や『レッドセイルズ』といった以前の作品とは、一線を画している。 トルコ生まれのアーティストは、1925年、21歳の時に海兵隊の歴史家、エドウィン・マクレラン少佐の書記官として、パールハーバーに到着し、少佐の部署に在籍中、イラストレーターとしての才能を買われて歴史書に載せる図面の作成を依頼された。(マノオキアン氏の作品は、海兵隊雑誌の『Leatherneck』にも定期的に掲載された。)ロードアイランド・スクール・オブ・デザインで、2年間美術を学んだマノオキアン氏は、1923年、海兵隊に入隊した。 その3年前、10歳の時、1915年にコンスタンチノープルで始まったアルメニア人虐殺から逃れ、エリス島に難民として移住した彼は、入隊にあたり、米国籍を偽らなくてはならなかった。 1927年に除隊後、ホノルルに残ったマノオキアン氏は、画家として活躍するようになる。才能ある彼の作品は、瞬く間に世間の注目を集め、批評家の称賛を得ることとなった。色彩センスに長けていた彼は、感情表現の手段として、鮮やかな赤や青、そして輝くゴールドのシンプルでありながら調和のとれた色使いの抽象画を用いた。当時の新聞記事に彼は、「客観的な性質と関連性のない抽象的な形と色をうまく配置することで、描写的な絵よりも、深い満足感と感銘を与えることができる」と述べている。 一方で、デイビッド・W・フォーブス氏の著書 『楽園との出会い:ハワイとハワイの人々について』(1778-1941)によれば、マノオキアン氏は、彼の作品が“現代アート”と呼ばれることを拒んだという。この明らかな矛盾は、彼の内面的な心の葛藤を示すものだ。論争好きで、神経質、親しい人にも謎の多かったマノオキアン氏は、自らの作品をたびたび破壊していたことも知られている。明らかに、人としてのあり方とキャリアの両面において、自らの存在意義に苦悩していたことがうかがえる。 マノオキアン氏が幼少期に体験した恐怖を知る人はいないが、彼の生い立ちに詳しい美術史家のジョン・シード氏は、ハワイに亡命した彼は、自国の人々には追求する権利すら与えられなかったユートピア的な人生観を表現していたのではないかと考える。世紀の変わり目におけるモダニズムは、過去に対して否定的な進歩主義に基づいていた。その一方で、マノオキアン氏は、一般社会が自然と協調して素朴な生活を送ることのできるユートピアを過去に見出していたのではないか。 牧歌的であり、商業的価値もあったマノオキアン氏の『ザ・マット・ウィーバー』以前の作品は、アールデコ調のシンプルで平面的な反復するモチーフが多用されていた。それは、現在のハワイ州観光局にあたるハワイ・プロモーション・コミッティー(HPC)が、米国に併合されたハワイを世界有数の旅行デスティネーションとして、宣伝し始めた時期と重なる。HPCは、何十年もの間、親しみやすいモダニズムとされるアールデコを、観光業界向けのハワイ観光誘致キャンペーンのデザインに起用していた。2014年にホノルル美術館で開催され、マノオキアン氏の作品を多数フィーチャーした「アールデコハワイ展」をキュレートしたテレサ・パパニコラス氏は、「マノオキアン氏のようなアーティストは、しばしば論争の的となるハワイの過去を、勇敢な船乗りたちと優しく美しい女性たちが平和に暮らす牧歌的な島として描いた」と述べている。 マノオキアン氏のハワイの描写は、HPCの観光誘致の宣伝メッセージを伝えた一方、そこには彼の持つ反体制的な思想も潜在していた。 クック船長がハワイに到着した場面を描いた1928年の作品『ザ・ディスカバリー』には、こちらに背を向けて立ち、クック船長たちの船を眺める誇らしげで体格の良いハワイの酋長たちが、豊かな色彩で前面に描かれている。一方、上陸した英国人たちは、ちっぽけで特徴のないグレーの人物像として描写されている。それは 差し迫りつつある戻ることのできない時代の変化の前兆を感じさせる。マノオキアン氏は、この絵で、政治的な見解を示したのであろうか?そうだとすれば、彼の現実逃避的なユートピアと矛盾してしまうのではないか?おそらくそれは、内面的な葛藤だったに違いない。 『ザ・マット・ウィーバー』にみる新たな芸術表現は、これらの不協和音への彼なりの答えであり、マノオキアン氏は、歴史的な空想から、より現代的で社会的な問題に題材を変え、日常生活を営む人物像を描くことで、以前否定していたモダニズムを作品に取り入れることを試みていたと考えられる。 芸術を通じて追求していたものが何であったのか。マノオキアン氏はそれを見つけることができないまま、1931年、わずか27歳で自らの命を絶ち、独創的で不朽の傑作を残した芸術家として、 短かすぎる 生涯を終えた。彼自身がそうだったように、その確固たる答えは永遠に見つからないのかもしれない。それでも私たちは、いつまでもその意味を探り続けずにはいられない。

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アーマン・マノオキアン氏による『ハワイアンズ』。アーティストの初期の絵画は、神話に出てくるような先住民文化の“古きハワイ”を慎ましく描いている。

『ハワイの国旗に敬意を表する司令官ローレンス・カーニー』アーマン・マノオキアン氏作。シダー・ストリート・ギャラリーズ提供。クリス・ローラー氏撮影。

『無題(ザ・マット・ウィーバー)』アーマン・T・マノオキアン氏作。ホノルル美術館収蔵。2003年、シェルドン・ジェリンジャー寄贈。

アーマン・マノオキアン氏による『無題のカップルと果物」。シダー・ストリート・ギャラリーズ提供。クリス・ローラー氏撮影。

トルコで生まれたマノオキアン氏は、海兵隊の書記官としてハワイに到着。アーマン・マノオキアン氏による『ホノルルに停泊する米海軍船サーアンドリューハモンド』。シダー・ストリート・ギャラリーズ提供。クリス・ローラー氏撮影。

『ハワイ初期の商人たち』。 背の高いマスト船に向かって海岸から挨拶するハワイのアリイ(王族)。 アーマン・マノオキアン氏による1927年頃の作品。 ホノルル美術館収蔵。1998年、アネリーゼ・ラーマン氏寄贈。

マノオキアンの亡霊

既存の定義に逆らい、異なる解釈を追求し続けた人物であった。

クリス・ギボン
アート提供
シダーストリートギャラリー、ホノルル美術館、
パシフィッククラブ

当初は無題で、のちに『ザ・マット・ウィーバー』と題された1930年に製作されたキャンバス画の油絵は、 アーマン・マノオキアン氏の芸術家としての新たなる方向性を示すものであった。パステル色をあしらった優しい線使いのヒューマニストな構図は、大胆な色合いと鮮明な幾何学模様で、神話に出てくるような先住民文化の“古きハワイ”を慎ましく描いた『アウトリガー』や『レッドセイルズ』といった以前の作品とは、一線を画している。 トルコ生まれのアーティストは、1925年、21歳の時に海兵隊の歴史家、エドウィン・マクレラン少佐の書記官として、パールハーバーに到着し、少佐の部署に在籍中、イラストレーターとしての才能を買われて歴史書に載せる図面の作成を依頼された。(マノオキアン氏の作品は、海兵隊雑誌の『Leatherneck』にも定期的に掲載された。)ロードアイランド・スクール・オブ・デザインで、2年間美術を学んだマノオキアン氏は、1923年、海兵隊に入隊した。 その3年前、10歳の時、1915年にコンスタンチノープルで始まったアルメニア人虐殺から逃れ、エリス島に難民として移住した彼は、入隊にあたり、米国籍を偽らなくてはならなかった。 1927年に除隊後、ホノルルに残ったマノオキアン氏は、画家として活躍するようになる。才能ある彼の作品は、瞬く間に世間の注目を集め、批評家の称賛を得ることとなった。色彩センスに長けていた彼は、感情表現の手段として、鮮やかな赤や青、そして輝くゴールドのシンプルでありながら調和のとれた色使いの抽象画を用いた。当時の新聞記事に彼は、「客観的な性質と関連性のない抽象的な形と色をうまく配置することで、描写的な絵よりも、深い満足感と感銘を与えることができる」と述べている。 一方で、デイビッド・W・フォーブス氏の著書 『楽園との出会い:ハワイとハワイの人々について』(1778-1941)によれば、マノオキアン氏は、彼の作品が“現代アート”と呼ばれることを拒んだという。この明らかな矛盾は、彼の内面的な心の葛藤を示すものだ。論争好きで、神経質、親しい人にも謎の多かったマノオキアン氏は、自らの作品をたびたび破壊していたことも知られている。明らかに、人としてのあり方とキャリアの両面において、自らの存在意義に苦悩していたことがうかがえる。 マノオキアン氏が幼少期に体験した恐怖を知る人はいないが、彼の生い立ちに詳しい美術史家のジョン・シード氏は、ハワイに亡命した彼は、自国の人々には追求する権利すら与えられなかったユートピア的な人生観を表現していたのではないかと考える。世紀の変わり目におけるモダニズムは、過去に対して否定的な進歩主義に基づいていた。その一方で、マノオキアン氏は、一般社会が自然と協調して素朴な生活を送ることのできるユートピアを過去に見出していたのではないか。 牧歌的であり、商業的価値もあったマノオキアン氏の『ザ・マット・ウィーバー』以前の作品は、アールデコ調のシンプルで平面的な反復するモチーフが多用されていた。それは、現在のハワイ州観光局にあたるハワイ・プロモーション・コミッティー(HPC)が、米国に併合されたハワイを世界有数の旅行デスティネーションとして、宣伝し始めた時期と重なる。HPCは、何十年もの間、親しみやすいモダニズムとされるアールデコを、観光業界向けのハワイ観光誘致キャンペーンのデザインに起用していた。2014年にホノルル美術館で開催され、マノオキアン氏の作品を多数フィーチャーした「アールデコハワイ展」をキュレートしたテレサ・パパニコラス氏は、「マノオキアン氏のようなアーティストは、しばしば論争の的となるハワイの過去を、勇敢な船乗りたちと優しく美しい女性たちが平和に暮らす牧歌的な島として描いた」と述べている。 マノオキアン氏のハワイの描写は、HPCの観光誘致の宣伝メッセージを伝えた一方、そこには彼の持つ反体制的な思想も潜在していた。 クック船長がハワイに到着した場面を描いた1928年の作品『ザ・ディスカバリー』には、こちらに背を向けて立ち、クック船長たちの船を眺める誇らしげで体格の良いハワイの酋長たちが、豊かな色彩で前面に描かれている。一方、上陸した英国人たちは、ちっぽけで特徴のないグレーの人物像として描写されている。それは 差し迫りつつある戻ることのできない時代の変化の前兆を感じさせる。マノオキアン氏は、この絵で、政治的な見解を示したのであろうか?そうだとすれば、彼の現実逃避的なユートピアと矛盾してしまうのではないか?おそらくそれは、内面的な葛藤だったに違いない。 『ザ・マット・ウィーバー』にみる新たな芸術表現は、これらの不協和音への彼なりの答えであり、マノオキアン氏は、歴史的な空想から、より現代的で社会的な問題に題材を変え、日常生活を営む人物像を描くことで、以前否定していたモダニズムを作品に取り入れることを試みていたと考えられる。 芸術を通じて追求していたものが何であったのか。マノオキアン氏はそれを見つけることができないまま、1931年、わずか27歳で自らの命を絶ち、独創的で不朽の傑作を残した芸術家として、 短かすぎる 生涯を終えた。彼自身がそうだったように、その確固たる答えは永遠に見つからないのかもしれない。それでも私たちは、いつまでもその意味を探り続けずにはいられない。

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